金閣寺って何ですか?って突然聞かれた場合に備えて

令和2年5月2日
今日も自宅にいます。GW中ですが、どこにも行かずにステイホームを真面目に実行中です。

ニュースを見ていると、緊急事態宣言が出てるにも関わらず、鴨川や琵琶湖に集う方が多いようです。

しかし、私は今日も頑張って自宅待機しています。正直、暇です。
ネットフリックスやAmazonプライム、筋トレ、読書、などで時間を潰しています。
そこで、自粛期間が明けた後のことを考えました。規制が解除され、再び京都が観光客で溢れたとき、突然外国人らしき方に上記のタイトルのような質問をされた場合、すんなり答えられるだろうか・・・。ということで私はこのゴールデンウイーク期間中、そのリストを作成することにしました(場所はすぐ説明できるんですけどね・・・)。すぐに覚えられるよう、どれも50字前後にまとめました。


金閣寺とは?
・ 正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)。
・ 元々は西園寺が建っていたが、鎌倉幕府衰退により管理者がいなくなり、足利義満が所有権取得し、金閣寺を建設
・ 1950年にお坊さんの放火で一度全焼するも再建

銀閣寺とは?
・ 正式名称は慈照寺(じしょうじ)。
・ 足利義満が建てた金閣寺を真似て、足利義政が建設。
・ 足利義政死亡後に銀閣寺完成(金閣寺の100年後)

京都御所とは?
・ 室町時代から明治時代になるまでの天皇の住居
・ 明治天皇が現在の皇居に移る。
・ 京都御所を取り囲むのは京都御苑

二条城とは?
・ 江戸幕府の始まりと終わりの場所
・ 初代将軍徳川家康が宿泊所として建てた

清水寺とは?
・ 寺の大部分は坂上田村麻呂が作った。
・ 9回もの焼失を繰り返した後、徳永家光により再建

北野天満宮とは?
・菅原道真の御霊を鎮めるために建てられた神社
・菅原道真が幼少から勤勉だった→「学問の神様」として信仰の対象に。

西本願寺とは?
・ 浄土真宗「本願寺派」の本山。元々は親鸞聖人のお墓であった場所が発展的に大寺院となったもの。建立は西本願寺が先
・ 本願寺派のお経を唱える時の「南無阿弥陀仏」は「なあみだぶつ」と発音。
・ 本願寺派のお焼香の本数は1本。回数は1回。

東本願寺とは?
・ 浄土真宗「大谷派」の本山。浄土真宗の派内の対立を利用して、徳川家康が西本願寺とは別の場所に東本願寺を建立し、本願寺の影響力の分断を図った。
・ 大谷派のお経を唱える時の「南無阿弥陀仏」は「なあみだぶつ」と発音。
・ 大谷派のお焼香の本数は1本。回数は2回。

三十三間堂とは?
・ 平清盛が建てた日本一長い歴史的木像建造物
・ 千手観音がある本堂の柱間(はしらま)が33あることことから、「三十三間堂」と呼ばれている。正しくは蓮華王院(れんげおういん)という。


上賀茂神社とは?
・ 正式名は賀茂別雷神社( かもわけいかづちじんじゃ)
・ 祭神は賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ) 。雷を分ける力を持った自然神
・上賀茂神社と下鴨神社、昔は一つの「賀茂社」 。 上賀茂神社を「上社」、下鴨神社を「下社」と呼んでいた。 どちらも賀茂一族の氏神を祀ってる。

下鴨神社とは?
・ 正式名は 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)
・ 祭神は玉依媛命(たまよりひめのみこと、賀茂別雷神の母)と賀茂建角身命(かもたてつぬみのみこと、賀茂別雷神の祖父)
・ 葵祭では、装束や牛舎の行列が、京都御所を出発し下鴨神社を経て上賀茂神社までを歩く。


八坂神社とは?
・ インドの疫病の神様を祀るために作られた。
・ もともと祇園社という名前。
・ 祇園=インドの地名 。祇園精舎=インドの寺院のこと。 この祇園精舎に「鐘」が登場したのは最近だそう。

平安神宮とは?
・  創建されたのは明治28年(1895年)。
・ 大鳥居ができたのは昭和4年。 意外と新しい。
・  日本の首都が東京に移り、京都が廃れた→ このままでは京都がダメになるので京都復興の象徴として建設された。

南禅寺とは?
・ 日本最初の勅願禅寺( 天皇・上皇の発願によって創建された寺 ) 。 日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。

大覚寺とは?
・ 真言宗大覚寺派の大本山
・ 足利尊氏が持明院統の光厳天皇を即位させる(北朝)。これに反発した大覚寺統の後醍醐天皇が自分が正統な皇位継承者だと宣言する(南朝)。 この南北朝分裂の歴史舞台となった寺院が大覚寺。

大徳寺とは?
・ 応仁の乱で荒廃→一休さん(千利休、一休宗純)により復活
・ 紫式部の源氏物語の作中に、大徳寺の前身となる雲林院が出てきたことなどから、貴族ロマンあふれる風光明媚なイメージが定着。






今日はこれぐらいにします。幼稚な内容ですみません。


天気もいいし道も空いてるのでふらっと出かけたくなりますが、今日も我慢して家で待機。英会話の先生に勧められたスペインドラマ(ペーパーハウス)を観たり、 youtube(幻ラジオ)を聴いたりして、コロナが収まるのをじっと耐えています。 外出は我慢しています!

TAG文具まつりへ行ってきました

TAG文具まつりとは、京都の文房具屋さんとして有名な株式会社タケダ事務機(TAG)さんが主催されている文具展示即売会(京都最大級)です。新製品や話題の文具が一堂に会し、しかも定価より安く購入できお得ということなので、先日行ってきました。場所は平安神宮そばのみやこめっせです。

いつも文房具はアスクルで買うので、文具メーカーの方から直接しかも対面で商品を紹介していただくことはなかなかないことで、とても新鮮でした。普段はたまたま手に取ったものや手にいれやすいものを適当に買ってしまうので、本当に必要かどうか、欲しいものかどうか真剣に選びました。

 

こちらは女子文具コーナーの様子です。

おしゃれで可愛い魅力的な文具や限定の文具がこれでもかって並べられていました。文具“女子”コーナーという名前ではありますが、もちろん男子も近寄ってOKでした。

会場の抽選会で主催の文具店の割引チケットを貰ったのでまた実店舗にもお邪魔してみたいと思います。

四条地下道タイムトンネル

四条通の地下道を歩いていると「みんなの写真展~四条地下道タイムトンネル~」と書かれた看板がありました。どうやら明治維新から150年を記念した写真展のようです。

明治維新の京都は人口が以前の2/3に減少し、都市衰退の危機に陥りました。しかし京都市民は100年後、200年後の未来を見据えていたそうです。その市民ぐるみで取り組んだ復興のキセキを写真とともに紹介されていました。

上記の年表によれば

日本初の博覧会が西本願寺で開催されたのが明治4年。

第1回都をどりが開催されたのが明治5年。

西南戦争が明治10年。

日本初の公立絵画学校(京都市立芸大)ができたのが明治13年

日本初の工業高校(現京都工学院、昔の伏見工業)ができたのが明治19年。

大日本帝国憲法が発布されたのが明治22年

琵琶湖疎水の完成が明治23年。全てが日本人の手による最初の大土木工事だそうです。

日清戦争が明治27年。

平安神宮が創建されたのが明治28年。平安時代ではありません。意外と最近です。

路面電車の開業も同じく明治28年

京都市役所が開庁したのが明治31年

京都市動物園ができたのが明治36年。国内二番目の動物園だそうです。

日露戦争が明治37年。

二条駅ができたのも明治37年。

七条大橋の着工が明治44年。今となってはあって当たり前の風景ですが、それまでは七条大橋がなかったんですね。

これは明治時代の四条大橋です。何もありません。祇園の入り口にはとても見えません。

昭和10年(1935年)ごろの四条大橋です。南座が見えます。京阪電車の四条駅も見えます。今も川端通を走る京阪電車ですが、昔は地上を走っていたんですね。今は七条~出町柳までは全て地下ですけど。京阪電車だけでなく四条大橋には市電が走っています。今となっては不思議な風景です。

さてこの建物はなんでしょうか?昔の二条駅かなって思いましたが、これが昔の京都駅のようです。明治30年(1897年)ごろの写真です。市バスではなく路面電車全盛の時代です。現在より少し北側にあり、「七条ステンショ」と親しまれた初代駅舎です。

京都駅が開業したのは、今から約140年前のこと。明治10年2月5日に、神戸から大阪を経て、京都への鉄道駅として誕生。場所は、現在の京都駅から北へ約140mのところにあり、開業日には、明治天皇が行幸されました。盛大な開業式が行われる中、田んぼや畑の中に“レンガ造りのハイカラな駅舎”という風景が、当時の京都人の驚きと興味を誘ったといいます。その後、利用者が増えた京都駅は、大正3年8月15日に2代目の木造駅舎が誕生。この時から駅前広場ができ、南北128m東西522mもの敷地に、ひょうたん池や噴水のある庭園も完成。ルネサンス風の駅舎とともに、大都市の玄関口らしい姿になりました。

昭和51年には京都駅はこうなりました。鉄筋コンクリート造りの近代的な3代目駅舎です。総工費4億240万円で、2代目駅舎より7倍も大きく、初代から比べると12倍もの大駅舎です。私には何となく記憶があります。この時代には既に新快速が走っていたようで京都~大阪を29分、京都~三ノ宮を54分で走っていたそうです。早いですね。東京オリンピックが開催された昭和39年には、東京-新大阪間の新幹線が開通し、京都駅の八条口も誕生しました。

そして、昭和50年代の中頃から駅舎の建て替えを望む声があがっていたことをきっかけに、全部ぶっこわされ、平成9年に現在の4代目駅舎が誕生しました。

さて次は祇園です。

祇園石段下と書かれています。私は知りませんでしたが、四条通と東大路の交差点のことを、「祇園石段下」と言っているようです。奥に見える建物が八坂神社ですね。大正時代の写真のようです。

これは昭和中期の祇園祭の様子です。長刀鉾が見えます。

三菱銀行、富士銀行といった懐かしい看板が見えます。活気ある風景ですね。

ちなみに今も昔も閑散としてる四条通の地下道ですが、この通りを何とかにぎやかにするための店舗設置案がまたしても見送りになったようです。新聞には「通行の妨げになるため断念」と書いてありましたが、私はそれにより影響が出るどこかの団体が猛反対したのだと思っています。

はじめての伊吹山登山

 

昨日初めて夜間登山を体験してきました。

山は滋賀県の米原市にある伊吹山です。京都市内から近い大文字山、愛宕山、比叡山へは年に数回登りに行っていますが、京都府以外は久々です。

前に勤務していた桑室司法書士事務所の所長が登山好きで、「伊吹山」というフレーズはしょっちゅう聞いました。毎回「ふらっと行って、ふらっと登って、ふらっと帰ってきた」的な言い方をされていたので、私は勝手に「あんな軽い感じで言うぐらいなのだから、きっと気軽に登れる山なんだろうな」と解釈し、滋賀県建築士会の若手有志による「伊吹山の山頂でご来光を見る」企画に応募し、昨日「ふらっと」行ってきました。

 

結果的には何とか、無事に頂上に到着することができましたが、雨は降るわ、霧で前が見えないわ、足場は悪いわで、二度と行きたくないと思うほどしんどかったです。

途中からずっと雨で、ドライブウェイのバスの利用を何度も考えましたが、なんとか自力で下山できました。とてもふらっと行って、ふらっと登って、ふらっと帰ってこれる山ではありません。下山後の姿は全身泥だらけで、これまでに味わったことがない壮絶な体験でした。途中ストックをお借りすることができ、本当に助けられました。

山頂は曇りでご来光は見れませんでした…(私はずっと寝てましたが)。

 

正直、あんなつらい登山は人生初めてです。

当分、登山はもういいかなって感じですが、今日は愛宕山の千日参りです…。

7/31夜から、8/1早朝に掛けて愛宕山を詣でると、千日のご利益があるというイベントのようなものです。

登山口から、山頂:愛宕神社までの道が、全てライトアップされていますので、ヘッドランプ・懐中電灯の明かりが一切なくても、この日だけはオールナイトで登れる特別な1日です。

愛宕神社千日詣り2017/7/31・8/1

参加するかどうか迷ってます。5年続けていますので、どうしようか本当に迷っています。

結局、登ってきました。二日連続の夜間登山はしんどかったです。

今回で5年連続の千日詣でとなりますので、ご利益も5,000日分を有り難く頂戴してまいりました。

この日は臨時バスが大量に出ていますが、最終24:00過ぎだということをすっかり忘れてしまい、家に帰宅できたのは深夜2時でした。

 

 

ひっそりと時代祭がはじまっています。

以前は丸太町の事務所で働いていたので、この10月になると時代祭がはじまるなぁ~という雰囲気をひしひしと感じていたのですが、烏丸に住むようになってからは全く感じなくなってしまいました。祇園祭の時は街全体がガヤガヤしているのですが…

祇園祭、葵祭と並んで京都三大祭のひとつでもある「時代祭」は、明治時代に平安遷都1100年を記念して始まったそうです。東京遷都までの京都の風俗を平安時代まで時代を遡りながら表しており、お祭り当日は各時代の衣装をまとった行列が、京都御所の建礼門前から平安神宮までの約4.5キロの距離を絢爛豪華な衣装を着て歩きます。笛や太鼓の音色とともに総勢2,000人、長さ2kmの時代祭の行列が、街を練り歩く姿に、時代を超えた光景を目の当たりにすることでしょう。
行列をただ見るだけでも楽しいのですが、「あれは豊臣の太閤さん」「あれは紫式部」などと人物や時代背景、衣装の意味がわかればより深く楽しめます。

 

コースは例年決まっています。

京都御所建礼門前 (12:00) → 堺町御門 (12:15) → 烏丸丸太町 (12:30) → 烏丸御池 (12:50) → 河原町御池 (13:20) → 河原町三条 (13:30) → 三条大橋 (13:40) → 三条神宮道 (14:10) → 平安神宮 (14:30)となります。

当事務所が面している烏丸通・四条通は関係ありませんが、隣接しているため、当日は必ず渋滞します。

 

22日の土曜日に事務所にご来所の際は、ご注意ください。

 

出発のシーンを見るなら京都御苑 (12:00頃) で、行列全体を見たいのであれば御池通 (12:50~13:20) がおすすめです。時雨天の場合は翌日の23日に順延となりますのでご注意ください。

 

 

●時代祭祭事スケジュール

10月15日
13:30 時代祭宣状祭
本年の行列の主な参役に選ばれた平安講社員(京都市民)約500名がご神前に行列の無事執行を祈願します。
また、この日午後3時からは境内で京都市地域女性連合会会員300名による「時代祭奉祝踊り足固め」が行われます。
10月21日
10:00 時代祭前日祭
10月22日
7:00 時 代 祭
祭典には総長・奉行が参列し、平安講社を代表して総長が祭文を奏上します。
8 :00 神 幸 祭
2基のご鳳輦に御霊代をお遷しし、午前9時に行列を整えて神幸列が本宮を進発、行在所に向かい、午前10時頃建礼門前在所に到着します。
10:30 行在所祭
崇敬者並市民代表が参列し、神饌講社(京都料理組合)より神饌が献じられ、白川女の献花奉仕があります
12:00 行 列 進 発
16:00 大極殿祭並還幸祭
全行列到着後、御鳳輦を大極殿へ奉安し、延暦文官参朝列の三位が代表で祭文を奏上します。続いて御霊代をご鳳輦より本殿にお遷しして祭典を終了します。
10月23日
10:00 時代祭後日祭
祭典終了と共に祭具片付け格納を実施します。

京都の地名「血洗町」

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住宅が立て込む山科区御陵の京都薬科大グラウンド近くに血洗町(ちあらいちょう)という不気味な名前が町があります。

街中のブロック塀ごしに下方をのぞき込むと、家の敷地に囲まれた三メートル四方のくぼみに清澄な水が見え、コイや金魚が遊ぶ。これは「血洗(ちあらい)池」と地元で呼ばれているようです。この「血洗」という地名は「蹴上(けあげ)」とも関係があります。

蹴上は源義経(牛若丸)が鞍馬山から奥州へ脱出する時、この辺りを通行中に坂の上から下って来て擦れ違った数人の平家の武士達に水溜りの水を蹴り上げられ、着物にかかった事にぶち切れて怒りのあまり皆殺しにした場所。

坂の上にある「義経大日如来」は、斬殺した平家の武士を弔う為に義経自ら安置したと言われています。その後山科の小さな池でぶち切れて皆殺しをしたときに使った血の付いた刀を洗いました。その池がある町が血洗町。御陵血洗町(みささぎちあらいちょう)という地名は、それを後世に伝える為に付けられたと言われています。

京都の地名「天使突抜」

「天使突抜(てんしつきぬけ)」

初めて聞いたときは、「ファンタジーな町」「キラキラネーム」「マンションの名前?」って思いましたが、全然違いました。

下京区の五条通りを挟んだ東中筋通りに「天使突抜」というなんともロマンチックな地名があります。地理的にも、京都駅にも四条烏丸にも徒歩で行けるいい所なので是非住んでみたいと思いますが、この地名は豊臣秀吉と京都人との意見の擦れ違いから生まれました。

天下統一を成し遂げ、京都にいた秀吉は、上京(かみぎょう/御所付近)の小川通のにぎわいを下京(しもぎょう/現在の京都駅付近)方面まで続かせて、もっともっと潤いたい一心で、一本大きな通りを無理矢理作らせました。

その道の途中にあったのが古くからの神が祭られている由緒ある神社「五条天神」でした。義経と弁慶が出会った場所として知られているこの五条天神は「お天使様」とよばれ当時の人々に親しまれていたのですが、秀吉は「そんなもん邪魔。縦に突き抜いたらええがな」って感じで道を境内に無理やり通してしまった為、住民は「お天使様を突き抜けてまで道を作るなんて…」と、皮肉の意味を込めてその土地を天使突抜と名付けました。今は1丁目から4丁目まであります。

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秀吉は愛知県の生まれですから当時京都と何のかかわりもない外界の人間のくせに、京都を大規模にかえってしまった為、京都の人々にはとても嫌わたそうです(大阪人には大人気ですが)。

その為、かつて聚楽第と呼ばれた秀吉の邸宅は京都人の恨みによる破壊で現在は跡形も残ってません。。。石碑には残ってますが、探すのはたいへんです。ただ住所には残っています。千本丸太町あたりには聚楽廻⚪︎⚪︎町という住所があります。

 

ちなみに秀吉が京都で行った横暴は他にもたくさんあります。
たとえば……
京都のあちこちに昔からあった寺の大部分を無理やり京極通り沿いに集め、通りの名前を寺町通りに変えてしまった。
寺は権力を持っていたので、一箇所にまとめてスッキリ、コンパクトにしたかったようです。

また、御幸町通り(ごこうまちどおり)も秀吉が造りました。
これは自分が御所道として造ったものです。
また、秀吉は方広寺(ほうこうじ)を建立したが、そのために新たな道を五条通り(現在の国道1号線)と名付け、元々あった五条通りを松原通りと入れ替えてしまいました。
時の権力者はすごいことを考えるもんです。

 

 

京都の地名「千本通り」「閻魔前町」「紫野」

京の都の西側を南北に貫く「千本通り」。堀川通りと西大路通りの間にある堀川・西大路ほどではありませんが、そこそこ長い道です。

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では、なぜ「千本通り」と呼ばれるのでようか?

「千本通り」はもともと平安京の中央を走っていた朱雀大路を、その起源とします。南は羅城門から始まり、洛中を出て、北には船岡山(ふなおかやま)が正面にあえて来るように造られました。その船岡山の西のふもとにあったのが、死者の埋葬地。
つまり「千本通り」は夜ごと死者が運ばれる恐怖の道だったのです。

それゆえ、道の両脇には数えきれないほどの死者を弔う木札、卒塔婆が立てられました。その数がおよそ千本
そこからこの通りは「千本通り」と呼ばれるようになりました。

死者を運んだ道らしく、この付近にはゆかりの地名も数多く存在します。

たとえば、船岡山の南西にある「閻魔前町(えんままえちょう)」。

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その名の通り、地獄の入口で死者を待つ閻魔様が住む町。

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ここにある千本閻魔堂の本堂では、今も閻魔様が睨みを利かしています。近くには「えんまや」というお店もあります。この町では、決して嘘をついてはならないと言われています。
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さらに、船岡山の西側を中心に広がる一帯の地名は紫野(むらさきの)。いかにも雅で風流な名前のようですが(私はあじさいでも多く咲く町なのかなって思ってました)、実はこの紫は死者が流す血の色を意味しています。つまり「紫野」は、「血だらけの野原」という意味です。全然風流なんかではありません。